【2026年7月号】カラダのオト
- 7月1日
- 読了時間: 5分

最近、畑が本のページに見える。
土はことばを待ち、私たちがその種を植え、綴り、時間が経って、ぷつぷつと美しい生命力を帯びたことば(時に文字)を収穫する。それが人の口に運ばれて、カラダとなり、血を通して、また音となり、ことばとなって、自分の一部としてカラダからこぼれる
(音のない声もまたことばとして)。
苗の定植作業を終え、ふっとみんなで畑一面を見た時、ああ、美しいな、本みたいだな、と思ってから、そんなことをくるくる考えている。
瞬い光の粒子を放つ透明マルチは海に見え、風が撫でる玉葱畑は記憶を撫でる夢の入り口と似ている。畑から色々な景色にツゥーと体が繋がる、それ自体が本のページをパラパラめくっている感覚に近い気がして、実像の其々の時間だけで無く、いくつもの空間と時間がレイヤーとなり所在してくれていることに安堵する。 (幾重にも重なる多層的な世界からの、囁き。そして、外を内在する身体へのささやかな祝福、)
(2025.7)
こんにちは、あのです。
私は昨年5月、のらくら農場に来て、初めて農業に足を踏み入れました。
二年前までは東京で、美術漬けの日々を送っていました。
高校時代から私淑している方々は皆、畑をやりながら創作活動をしていて、私も当時から漠然と自分の将来に「農業」というワードを置いていました。
大学二年生の時、消費中心の東京生活でモノ(作品)を生み出し続ける事に限界を感じ、卒業したら真っ先に畑に行こう、と決めました。
働く畑を探し始めた時、たまたまここの元スタッフの方にお会いしたのが、のらくら農場との出会いでした。
初めて訪れた際、本のページが捲られるように流れる畑を横目に、森の中へ続く一本の道を登ると煌めきの湖があり、農場がポンと現れる。詩集みたいな場所...と一気に惹き込まれました。
農業経験一切なし、知識皆無の私はオロオロしながら門を叩いたのですが、紀行さんとスタッフの皆さんの温かい雰囲気に親近感を抱き、ここにしよう、と信頼と共に決めました。
農業は、カラダで覚える(考える)こと、意識の置き方(行き渡らせ方)を探ることが多く、本当に愉しいです。
些細な事だけど、定植作業の、土を掘る適切な深さと幅を作る時の、苗の質量のイメージを手の先に置くような鮮明さがあるように、作業の端々にカラダで思考する 場 ( 間 )が存在してくれている。
葉物収穫をする時の、肩甲骨の微かな脱力の隙に一筋呼吸を通す感覚や、さく引きの、土とカラダを平行にし 角度や力加減の疎通を図る、あの感覚。
先日の鍬作業では、「鍬を使い溝を作る→自分が鍬を支配する」という、なんとも乏しく窮屈な潜在意識によって全ての動きがこんがらがり、苦戦しました。
鍬を自分の腕(手)の延長(投影)として捉え、対等に扱う方が全身の余計な力が抜け、自然に動くことができ俄然楽で、考え方や意識の形でカラダの可能性は変化する、という嬉しい発見がありました(悲しい事に技術は全然ついてきていない…トホホ)。
頭で未来や過去の産物をぐるぐる捏ねくり回している時は大抵、今ここに在るカラダをおざなりにしてしまう。
カラダとイシキがそれそのものとなり、環境とも地続きになって、線として捉えていた輪郭の概念が消えるときを探る過程のおもしろさ。
カラダの細部へ(そのまま外へ…)意識を向かわせることで、 存在(現在)の空間、時に世界の質量を確認し、目に依存し情報を処理することが主となってしまった平面的な状態を少しずつ解体できる。
束の間の意識を置く(根ざす)事で、自分と環境との間(短絡的に処理していた微細な変化の連なり)に確かに関係が生まれ、互いを触知しようと探る淡い領域に、認識を丁寧に構築する。
畑に出ることは、絵を描くこと、モノを作ることに凄く共通しているな、と思うことが多々あります。
この春 初めて施肥に参加した時は、 “農業=地表のデザイン” という言葉がパッと頭に浮かび、心の中で歓喜しました。
畑を考える という、ミクロな単位で循環する世界に想像を向ける行為の緻密さとその解像度の高さにも、圧倒され、感動しました。 (造形面だけでなく、もっと総合的な、ある種ひとつの舞台を作るという意味でも)
昨年は、作物との付き合いが定植や収穫からだったので、その一つ前の工程に参加出来た事で、「つくること」をより根本から見つめられるようになった気がします。
畑の、作物の隅々に人の想いが紡がれ、残る。野菜の味も、食感も、成長を支える土も、一つ一つが作り手の試行錯誤と的確な作業があることによって成り立っている。その事を改めて実感すると共に、畑を眺めたとき、カッコイイな、美しいな、と思う理由が少し垣間見えた気がして、固定化された時間はリボンのようにしゅるりと解け、カラダはまた、ツゥーと軽くなる。
冒頭に置いた文は、昨年書いていた日記から引用しました。
ことば、コトバ、カラダ。
食とカラダ(コトバ)の緊密生(あるいは同一性)。
今年は 身体性を軸に、畑と制作を行き来しながら、色々考えていきたいなあ。。
森と畑から与えられる恍惚とする瞬間をお守りにしながら、農の旋律と、カラダに隣接する記憶の断層に身を浸せている毎日に、いまは、端々の細胞まで満たされています。
毛部川 天(あの)



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