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【2024年6月号】私の経歴を書いたことがなかったので振り返る


のらくら農場に新しく来た人達が、驚いたり、感動したり、苛立ったり、苦しんだり、夢中になったりする様子を眺めていると、随分と鈍くなった自分の感性にがっかりすることもあるし、彼らにとって新しく感じるような景色が、私にとっての当たり前の日常になっていることを嬉しく思ったりもする。今回の写真は、珍しい状態の作物への反応が薄くなりつつある私も、この長芋には久々にウキウキした。という写真で、しかしこの後、出荷できる部位が少なくがっかりする。


のらくら農場に来て6回目の夏。転勤族で育った私は、一つのコミュニティにこんなに長くいたのは初めてで、思っていたよりもずいぶん長くここに身を置かせてもらっている。農場の仲間たち一人一人の、苦手分野も良いところも口癖も思考の癖もよく知っていて、それはもはや兄弟のような感じ。そういう何年も一緒に過ごす仲間が年々増えたり、減ったりを繰り返し、また5月になれば何人も新しい人がやってきて12月には去っていくので、人間関係経験値を日々積んでいる。生きていくのに必要な人間関係経験値が足りていないと思ってこの農場にやってきたので、本当に必要なことばかり降り注いできて、いつも体中に液肥(液体の即効性の肥料で、噴霧したり灌水に混ぜたりして使う)を浴びているような気分だ。これが液肥のようにも見えるけれど、きっと堆肥(土を多方面から豊かにする効果があり、じっくりジワジワ後から効いてくる)のようにじわじわと人生後半とかでも効いてくるだろうとも思っている。


農業に興味を持ったきっかけが何だったのかは分からないけれど、興味を持ててとても良かったと思っている。幼少期に、田んぼでザリガニを取ったりドブに落ちたり、落ち葉の海に潜って遊んだり、靴を履いていることがしんどいくらい裸足で過ごした身体感覚が、土から離れて生きることを許さなかったような気がする。雨のにおいがして、風を感じて、空が青くて雲が流れて、日射しにジリジリ焼かれて汗が噴き出るのが、最低賃金と同じくらい、私にとって、ないと生きていくのが難しい最低必要身体感覚だった。休みの日にキャンプする、ということより、仕事というか生きるようにそういうことに触れているのが、私にとってすごく重要なことなのだ。そういうのと農業は相性がいいように思う。


そういうわけで、何となく大学は農学部に進学して、家庭菜園のサークルに入って、ずいぶん遊んだ。丘一つ越えた向こうの畑にスコップとクワを担いで出かけて、帰ったらみんなでお茶をするのが日課。大学内の実習用果樹園の手伝いをするという名目で、ブドウの脱粒した実(房から外れた実のことを脱粒といって、傷みやすいので除いてから出荷する)を食べ続けた。作りすぎた三浦大根(大きな白首大根で味わい深い品種)のせいで主食が大根になってしまった。学園祭では野菜と果物と花を売って2日間で60万円売り上げた。草をたくさん積んで堆肥にする奴がいた。カブが美味しいってことを教えてくれた先輩がいた。ジャガイモから伸びた芽がこんがらがってコンテナもろともひと塊になったようなものを、みんなで芽欠きして食べた。ゴマ油を搾ってパンに付けたら極上の香りが広がった。これがおそらく私の農作業の原体験。仲間がいて、畑で遊ぶ。そしてお金にする。面白く幸せだった。


ファームステイにも行ってみて、そこで面白い大人にたくさん出会った。大学生と深夜まで元気に語り合ってくれるようなおっちゃんや、とにかく腹いっぱい食べさせようとする料理上手のおかあちゃん。なんでも教えたがりのおじい。黙々と動かす手が美しいおばあ。そこで食べさせてもらった野菜や果物やお米の美味しいこと。果物は腐りかけが一番うまいから、畑でハネを食べるのが一番うまいし、同じ小松菜でもどんな密度で播種されているかとか被覆の種類(ギュッと目が詰まり保温性が高い不織布と、風が通るような防虫ネット))とかで柔らかさや香りが全然違うのが分かった。春と冬でも味が変わるし、とにかく一番おいしい瞬間は「畑」にある。この大人達の働く姿や暮らす景色まで含めて、美味しいと、すごく思った。これは畑に来なくちゃ私には気づかなかったことだったかもしれない。だから本当は、みんなに畑を見て、知って、味わってもらえたらいいのに、といつも思う。


大学を出た後、1年間は茨城の農家でレタスと白菜とキャベツと長ネギに触れた。とんでもないスピードでレタスを切っていくその人は、豪快で、チマチマしたことは好かないと言っていた。スリランカ人の先輩3人と日本人の先輩が2人。みんなで猛烈なスピードで機械のように働くのがかっこよく面白かった。出荷した野菜は工場でカット野菜になるらしく、私は、その向こうにはどんな人がいるのかといつも考えていた。育苗が上手で、上手な人は当たり前にそうやるから、どうやったらあんな風にできるのかはまだ私にはわからない。慣行農業であっても土づくりをしなければ土が壊れる、と何度も言っていた。徹底的に効率よく、パフォーマンスを上げた少品目のプロを前にして、私達有機多品目農家がハイスピードでレタスの収穫も出来ないのに値段を上げてくださいと言ったとしたら、それは努力不足の可能性はないか、という視点を持たされたのはここでの経験ゆえのこと。


2年間は高知県の山奥で、師匠に昔ながらの農業を教えてもらった。あらゆる野菜の種を取る方法。ショウガの上手な作り方。里芋の極意。筍の掘り方。カニの罠のかけ方。重粘土の畑は雨が降れば水が引かないので1週間は耕せない。そういう中での多品目栽培の難しさと工夫。ショウガのかき揚げ。クワの上手な使い方。管理機一発で真っすぐで平らな畝を立てる技術。近所の人達も沢山のことを教えてくれた。イノシシの美味しさ。ゆずの徹底活用術。川のある暮らし。誰でも歓迎する懐の深さ。山菜採り。原木シイタケ。足元にあるものが豊かだということを、みんな知っていて愛していた。


高知を離れ、地元千葉県に戻った2年間。千葉では掛け持ちでいろんな農家で働かせてもらった。高知での昔ながらの農業から、近代にタイムスリップしてきたような千葉の農家の技や道具(機械ばかりではなく農家の便利グッズがめちゃくちゃ発達していた)は刺激的だった。これは儲かり方が違うわいと思った。ただ、千葉の農業地帯では私にとっては自然が足りなくて、もっと山に近くて自然の濃い地域に住みたいと思ったが、高知の師匠のやり方では私は金銭的体力が尽きてしまうと思ったので、どうやって折り合いをつけていくか、その答えを探したいと思った。


のらくらに来た。このあたりからもう複雑で、言語化できていないことが沢山ある。どん欲なまでの反収(面積当たりの収穫量)。意外と非効率に積み上げていく愚直さ。やるしかなく「やる」のみが究極の答え、という状況に何度も直面した。やめるということを知らない人がいる。ホウ素というミネラルが成せる細胞の、ち密な食感。微量要素の作物への影響の大きさ。一人っきりのちっぽけさと、一人ひとりの力の大きさ。まだ理解できない本を、理解できないまま読み続けているような日々を6年経っても過ごしている。まだここで学ばなくちゃいけないことがあると思っていたら6年も経ってしまった。


2週間だけ滞在した農家さんのことも、6年間いるのらくら農場のことも、あげたらキリがないくらい沢山の心に残ることがある。一つ一つの出会いが宝物になっている。農業に出会えて本当に良かった。美しいものも、困難も、喜びも、これからも私はずっと農業を通して知っていくと思う。なんでかわからないけれど、本当に人生の喜びを全て内包していると思う。きっと前世でも農民だったんだろう。これから私は、どんな景色を作り、どんなおばちゃん、おばあちゃんになっていこうか。天寿満了の折には、これまでに出会った沢山の農家達と飲み交わしたいという気持ちをいつまでも忘れたくない。農とともにあらんことを。     


 めい

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