ここの夕日はなんだか白い。標高が高いためなのか、淡くじんわりと沈んでいく。夕方の収穫が終わり帰路に立つ時、いつの間にか暗くなるその白い空に気持ちを少し焦らされている。雲はモコモコした入道雲が、空に溶けてしまいそうな薄雲になって、あれだけ走り回っていたキジが姿を隠して、あけびの実が割れだして、タイヤがパンクするんじゃないかと思うほどのイガ栗が落ちてきて、佐久穂はすっかり秋になった。この場所で二度目の秋。何も知らずただただ傲慢に、命を生み出す仕事だと、勝手な期待と浅はかな想像を携えてここに来てから一年。成長した実感も、悩んでいたことの答えもないまま、後先のことは後回しにして、作業に集中する。そんな日々。 今年、のらくらは大所帯になり、最大で16人。毎日会うのに顔を見ると少し嬉しくなる人たち。お互いに体調を気遣い合い、できるだけ笑顔を心がけて支え合ってきた。それは皆が繫がりをしっているから。一緒に作業して、まかないを作って食べて、暗くなるまで行動を共にする。仕事なのに何処か学校のような、家族のような。そういう場所だから少しでも辛そうな人、イライラしている人がいればすぐに分かる、そんな距離感。引っ張られたり、押したり引いたり、引っ掻いたり。そうやって繫がりの苦しさと、それを乗り越えた先の光を知っている皆だからこそ、この厳しい農業という仕事を今まで乗り越えることができたのだと思う。けれど、長い一年。時には自分を含め心を崩した人、体調を崩した人がいた。そういう時があった。自分でもなんで苦しいのか、わからないことばかり。誰かを支えたくても知らないことばかり。悩んで、悩んで、話してそれでもわからなくて、できるだけ光の方へと思いながらも、いつのまにか心を見失っている。でもそんな中で少しだけ。ほんの少しだけ解ったのは、知らなければ何もできないということ。自分のことも、誰かのことも。だから自分の心をまっさらにして一つずつ、ちょうど部屋を引っ越すみたいに。大事にしたいもの、感情、記憶。ゆっくりと家具を入れていく。それらは確かに変わってしまうものなのだけれど、きっと握りしめることはできる。だから少しずつ、一つずつ。「そんな事をしても意味がない。相手の気持が100%分かるわけじゃない」確かにそうかも知れない。でも、そのやり方でしか解らないことがある。知り得ないことがある。見えていることだけで判断してしまわぬように。 そうやって農業をして、人のことばかり考えるようになったのは、農業の本質がきっと人だから。周りに影響され続けている植物たち。寡黙に、身を委ねて。土も水も光もなければ、そして時に、風や虫たちがいなくては存在できない彼ら。もちろんそれら全てが本質で農業なのだけれど、そのまっさらな生命たちに意味、つまり本質をつけるのは、結局のところ人なのだ。だから自分達は自分自身の本質を見極めなければいけない。命の方向を決める責任と感謝を持って。心をいつも真ん中に。感情に支配されることなく真ん中に。一枚の葉っぱに因われないように。土の中の生き物を忘れないように。
カズ
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